みずほ銀行オンライン・システム障害について 〜 注47

公開: 2021年12月8日

更新: 2021年12月8日

注47. 二宮尊徳

二宮金次郎は、江戸時代(忠臣蔵で有名な赤穂藩の家臣であり、主君の浅野内匠頭が江戸城内で小栗上野介に切りかかり、切腹を命じられた事件があった時代)の小田原藩(現在の神奈川県西部)の栢山(かやま)村の比較的豊かな農家、二宮利右衛門の長男として生まれた。しかし、天災(寛政の台風)のため酒匂川が氾濫し、田畑に大きな被害を受け、家も流された。その後、相次いで両親は死んだ。農家の長男として、金次郎は兄弟の面倒を見るために、幼いころから働いた。

金次郎は、薪を集めて売り歩いていたと伝えられている。その山で集めた薪を背負って、町へ行き、それを売って歩く間にも、書(本)を読み、学ぶことに精進したとされ、その姿は、昭和の小学校に置かれていた、薪を背負って、書を読む金次郎の像である。金次郎は、お金を稼いで兄弟の世話をしながら、自分の家の田んぼを耕し、拾って来た米のもみを集め、田んぼに植えて、米を収穫したと伝えられている。

この努力が実り、金次郎は農家の主人として、家を再興した。それだけでなく、侍の家に請われて、破産に瀕していた武家の財政再建に取り組み、見事に財政立て直しに成功した。この功績が藩主の耳に入り、金次郎は小田原藩の所領であった現在の群馬県にある村(下野芳賀桜)の農村再建を依頼され、その任に就いた。金次郎は、桜の農村再建に当たり、「報徳仕法」を定め、農耕に励んだ農家に褒美を与え、農耕に精進することを奨励した。

桜の後、金次郎はいくつかの農村の再興を成し遂げたが、その業績に注目した老中水野忠邦に認められ、印旛沼から江戸湾に流れ込む運河の建設計画立案を依頼された。この運河建設計画は、頓挫したが、金次郎とその弟子たちは、農村再建に関する計画策定の枠組みを作り上げた。

二宮金次郎の基本的な考え方は、収入に見合った支出に抑えること、支出を減らして蓄財し、蓄財した資産を不測の事態に備えるための蓄えとすること、同じ面積の耕作地でも、できるだけ収穫量を増やすような工夫を考えることなどの、「報徳思想」として知られている。

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